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写真撮って、日記書いてます。

「新しい生活」

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46日目。出勤の日。職場の人を見る限りだと皆恐る恐る出勤している感じだ。まあそりゃそうだ。急に通常通りに戻すという話が降ってきて、対策もさほどないままで電車やバスに乗らなきゃならないのはわたしだって怖い。目に見えないからなおさらだ。車内のつり革や手すり、ボタンにまで触るのをためらうようになった。「新しい生活」なんてのは、そういう心情的な部分でも変に侵食してきているようで嫌になる。

「新しい生活」ていう言葉は、民俗関係をやっていたら必ず出くわす「新生活運動」を想起させてあまりいい気持ちのものではない。田舎の公民館などにはまだその時代のスローガンとかが貼られたりしているが、要は生活を簡素なものにしましょう的な内容である。冠婚葬祭は派手にやらず公民館でやりましょう、みたいなのとか。あのおかげで伝統的な結婚式だとかそういうものはほぼ崩れ去ったとかいう話だ。それが良かったのか悪かったのかはわたしの判断するところではないが、あの時代の運動で何が起きて何が変わったのか。あの辺をもう一度ちゃんと捉えなおさなければなあと思いつつ、なかなかできずにいる。コロナ自粛期間中にその辺の本を1冊でも読めればよかったのだが、今となってはもう仕方のないことだ。

サーモグラフィーを導入するしない話が職場で上がっていて職員一同色めき立つが、誰がそれを見張るのか(測定結果を見守り続けるのか)で揉める。結果を見るだけでなく、そこから注意というか退去・帰宅をお願いしに行かなければならないのだ。つまるところ、誰がネコに鈴をつけに行くかで右往左往するネズミと一緒だ。誰もババを引きたがらないのは当然のことだが、「新しい生活」てやつはそういうものまで求められるし、だいたいマンパワーを過信した取り組みすぎるのがいかにもって感じである。それを絆とか生ぬるい言葉で覆い隠そうとするから余計しんどくてたまらない。帰宅をお願いしても「いや、入る!」ていう人は必ず出てくるだろうし、それをやめさせる権限はこちらにはない。実際、先日のことだけどマスクしてないのに入ってこようとした人いたからな。入館票にも「わしはええねん、そういうの」とかいって粘って、結局受付カウンターで30分世間話とか。現場が疲弊するわこれじゃ。当面休館だった方が良かったのではないかと今でも思う。しかし上の決定には従わないといけないのだ…末端職員ができることと言ったら次の選挙の投票先をどうにかすることくらいだろう。なんともはや、しんどいことであるなあ。

仕事の関係先の担当者にメール。彼のところはまだ休業らしく、彼もまた休業なので仕事しちゃいけないんだそう。しかしこちらの仕事は向こうが動いてくれないと動き始めることすらできないのだ…たぶんそういうところ多いんじゃないかなあ。来週くらいには何か動きがあればいいのだが。

とりあえずじっと待つ。